リコネクションを受けられた方へオススメの本

評価:
ゲーリー ズーカフ
サンマーク出版



(2003-03)

リコネクションをお受けになられた方々へ
リコネクションをお受けになられた方のうち、五感を超越した感覚に触れられ、
「どのように解釈したらいいか分からない。この新しく感じ始めた感覚をもっと自分のものにするにはどうすればいいですか?」といった声を多く聞くので、参考になればと思い、ここにご紹介します。
下記の文は、 魂との対話の著者 ゲーリー・ズーカフによる序文です。
興味をもたれたら是非どうぞ!
かつて私は、ウィリアム・ジェームス、カール・ユング、ベンジャミン
リー・ウォーフ、ニールス・ボーア、アルバート・アインシュタインと
いった学者たちの本に強く心を惹かれ、それから何度も読みかえしたものだった。
西洋科学と東洋思想の連結を試みて好評を博した
『The Dancing Wu Li Masters』(邦題『踊る物理学者たち』青戸社刊)を執筆していたころのことである。
彼らの本のなかで、私はある特定なものを発見していた。その特別なものが
何であるかを理解したのは、少しあととのことだったが、それらの著名学者達は明らかに、彼らが説明できる範囲を超えたところにある「何か」に手を伸ばそうとしていた。
心理学、言語学、あるいは物理学といった彼らの専門分野の言語では表現不可能な領域に存在する「何か」にである。
彼らは、自分たちの書物を通じて、その「何か」を私たちに伝えようとしていた。
私の心を彼らの書物に引き寄せつづけていたものは、彼らが伝えようとしていた。
その「何か」だった。
彼らは、秘密論者達だった。世にいう非科学的な分野とかかわることで自分達の
キャリアに悪影響が及ぶのを怖れていたために、公言することはひかえていたが、
人知を超えた神秘的な力が存在することを、彼らは明らかに知っていた。
五感による制限の先に多くのものが存在することを、
少なくとも心のどこかでは知っていた。
彼らの著書は、心理学や言語学、あるいは物理学の発展に大きく寄与したが、
そればかりではない。
それらの本は、個々の読者の進化 にもすばらしく寄与する
可能性を秘めている。
彼らが残した書物には、それにふれた人間を、やはり心理学、言語学、あるいは物理学の言語では表現不可能な手段で変化させてしまう機能が備わっている 
のである。
彼らの作品のもつ、特殊な魅力に関する理解を深めていく過程で、私は、彼らを
動機づけていたものが世俗的な名誉や仲間たちからの敬意などではないことに気がつくに至った。
彼らは自分たちの魂と心を、あるものの上に固定し、ある超常的な場所に到達していた。
そのとき彼らは、直感が勢いを増すインスピレーションの領域のなかにいて、この宇宙には時間と空間と物質の領域を超越した何か、物理的な生命を超越した何かが存在する ことを知っていた。
いい換えるなら、それらの学者たちを動機づけていたものは、個々の存在を超えたところからやってくる、ある種の壮大なビジョンだったのである。私たちのそれぞれが、現在、何らかの形で、それと同じビジョンへと引き寄せられつつある。
いや、それはたんなるビジョンを超えている。それは、新しくあらわれつつある力である。私たちを進化の旅のステップへ押し上げてくれる力である。人類はいま、心の奥底で、その力にふれたいと願っている。その力と
接触を妨害しているものを取り払いたいと願っている。
この新しい力は不滅の力である。しかしこの力を理解する、あるいは説明するための言葉の集団がまだ生まれていない。そしてそれが、人類とこの力との、接触を激しく妨げている。この瞬間、人類の進化のこの時点において、この力、すなわち「宗教的概念や霊的概念を超越して真のパワー
の地位に就こうとしている力」を描写する妥当な言葉の集団、あるいは手段が求められている。
私たちはいま、人類ということつの種として、この力と意識的に初めて接触しようとしている。
と同時に、この力を明確に描写するための言葉を必要としている。この力が、人類の行動や判断のなかで明確に特定されるためには、あるいは神秘のベールを通じてではなく、この地球の力の場に影響を及ぼす真のパワーとしてハッキリとみえるようになるには、それが不可欠であるからだ。この本がその一助となることを、私は心から願っている。
私たちが何であり、何になろうとしているかについて話す際に、私はこれまで「五感型人間」と「多感覚型人間」という言葉を用いてきた。五感型人間とは、基本的に五感のみしか利用していない人間のことであり、多感覚型人間とは、五感以上の感覚を利用している人間を意味する。
 そして、多感覚型であるほうが、五感型であるよりも、とくにこれからの時代においては有利であり、より妥当である。多感覚型人間の体験のなかには、成長と発展のための好機と、不必要な困難を避けるための好機が、よりたくさんふくまれている。
これまでに私は、五感型人間の体験と多感覚型人間の体験をことあるごとに比較し、両者の違いを可能なかぎり際立たせてきた。しかしだからといって、私たちがいま離れようとしている五感型の進化段階が、私たちがいま進入しつつある多感覚型の進化段階とくらべて、まったく価値がないとういことには、けっしてならない。
このふたつの関係は、ちょうど電気とロウソクのようなものである。電気の出現により、ロウソクは照明としては過去の
ものになってしまった。しかし、だからといってロウソクのパワーを否定することは誰にもできない。それはたんに、時代にそぐわなくなってしまった、というだけのことである。
ただし、断っておくが、私は人間としての体験に関するエキスパートなどではけっしてない。
そもそもこの世界に、人間としての体験に関するエキスパートなど存在するだろうか?私たちはたんに、人々の旅を支援しうる情報を分け与える能力をもつにすぎない。
人間としての体験は、動きと思考と形の体験である。それはまた、ときには、動きと思考と形に関する実験でもある。私たちにできる最善のことは、動きと思考と形に関するコメントを発することだけである。しかしながら、そのコメントは、それによってもしほかの人たちが、優雅に動き、明晰に考え、人生を美しく形づくることを学ぶことになったとしたら、すばらしく大きな価値をもつことになる。
私がこの本に書いたことは、私自身が人生を眺めるためにもちいるようになった窓のようなものである。私はいま、その窓をあなたと分かち合おうとしているが、あなたがそれを受け取る必要は必ずしもない。知恵とハートにいたる道はたくさんある。私たちは大いなる豊かさのなかにいるのである。
この事実は、私にこの上ない喜びをもたらしてくれている。
 
私たちが共に行うべきことは、たくさんある。
 知恵と愛と喜びのなかで、共にそれらを行おうではないか。
 それを、人間としての価値ある体験にしようではないか。
                  ゲーリー・ズーカフ