医療をその土地の人々にもたらす際に最も困難だった部分は、彼らの迷信を手放させることだった。
アルベルト・シュバイツァー博士
リコネクション®~人を癒し、自分を癒す~P202より
3月4日、1週間早く母の3周忌が高崎の善性寺でありました。
善性寺は、私の通った明峰幼稚園を所有するお寺。
今回の法要は、後継ぎさんかな?大学を卒業したてと言った風貌のかわいらしい女性のお坊さんが担当でした。
インディゴ世代とクリスタル世代の間の年頃だな~と心の中で思って、法要の後の法話を聞いていたら、「昨日、ラジオで流れてきた歌に感動したので紹介します」と、竹内マリアさんの、いのちのうたの歌詞を紹介されました。歌詞の内容があまりにも自分の近況に近すぎて、思わず「うるっ」とした私。
「ほんとうに大事なものは隠れててみえない…」
インディゴなお坊さん(勝手に呼んでますが…)素敵なお話をありがとうございました^^
私の3月4日、母の法事にまつわる学びは、儀式や、文化、迷信に潜んでいる恐れが、どれほど人々の考え方に浸透しているかという事を目の当たりにするという事でした。
私は日本の宮崎県都城地方に住んでいます。
生まれは高崎で、嫁ぎ先は山田と、風習的にはとても近い位置に居ます。
何年か前から、法事の日取りに関する事で疑問がありました。それは、命日が過ぎてから法事をしたら「ばち」が当たるというもの。
「ばち??」誰がばちを与えるんだろう。
死んでいった人?仏様?神様?
神様や、死んでいった人々は、そんなに心の狭い存在なのでしょうか?
その他にも、今はだいぶ、無くなりつつありますが、
葬式の後のお浄め塩や、ほうきをまたがる、墓や仏壇に上げる花、ロウソク、線香、移動する方向(右回り、左回り)、配置の方向(北枕)などなど
何を清めるんだろう、何を払うんだろう…
以下、リコネクション®~人を癒し、自分を癒す~
P205より
恐れの概念を強化しているあいだは、愛に基づいて行動する事はできません。文化として、恐れを儀式で飾り、その上そのような儀式が愛の表現であると考えることで、僕たちは自分たちをごまかしている。
祈りを加護のために用いる時、それは祈りをおとしめていることになる。祈りやその他の儀式を行うのは、いったい何から自分たちを守るためなのか?
それは姿なき恐れ以外の何ものでもない。
お寺にてお坊さんから、お経をあげてもらった後、仏壇に手を合わせ、墓に手を合わせしたら、お寺の法要が十分ではなかった、自分のあげた焼香は十分ではなかったと、自分自身に言い聞かせていることになります。
私は思うんです。先祖はつねに自分の中にあるもの。自分の感情を大事に観察し、日々の暮らしの中を感謝の気持ちを持って生きていくことが、私の中に生きている先祖のDNAが喜ぶのでは…と思うのです。DNAは常に意識を持っているし、情報を飛ばすので、多次元に存在する先祖や、未来の子供たちの意識に即座に伝達する。
私の感じた更なる学びは、今まで述べた事がたとえ真実であったとしても、これを強要(コントロール)してはならないってこと。
判断しない…ここに立ち返れたことに感謝して、母の次世への旅立ちを祝福したいと思います。
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